居場所って何だろう

居場所がない、そういう声は私が思っているよりも多いのかもしれないと思う。私自身も、居場所がないと感じ、それを求めてさまよう一人だ。最近は、あきらめにも似た気持ちになり、引きこもりがちになっている。

そもそも、居場所って何だろう。

自分を受け入れてくれる場所。愛してくれる場所。自分らしくいられる場所。心からやりたいことができる場所。

そうこの居場所というのは、おそらく、一般的な企業ではなしえない。生計を立てるために、成果を上げるために、自分が成長するために、会社が利益を上げるために、いる場所は多分、本質的な居場所ではない。働くことはあくまでビジネスである。

家が居場所として機能しているならこれ以上幸せなことはないのかもしれないが、家庭内でも恐怖や緊張を強いられる場合、人は追い詰められる。

そしてまた仮に家がある程度よい環境であっても、働く環境がブラックすぎた場合、病んでしまうこともあろう。これもまた悲劇である。それはまわりの家族も苦難に陥らせる。

仮に一人暮らしで、頼れる家族もなく、働く環境も良くなかった場合でも、ほんとうにかんたんに、人は孤立し病んでしまうのである。

そう、生きることは案外難しいのである。

だからこそ人は居場所を、掛け値なしに自分を認め、受け入れてくれる場所を、無意識にでも求めるのかもしれない。

地域のコミュニティに参加してうまくいく例もあると思うが、地域の行事というのもまた大変で、お祭り、消防団、地域の役など何かと忙しない。

だから、もしかしたら、集まって、喋りたければ喋って、ゆっくり本を読んでもよくて、というような、もっとスローなコミュニティが必要なのかもしれない。

 

辛くなったときに

私が辛くなったとき、死んでしまいたいと思ったときに、助けになっているWebサイトを紹介する。

 

「死にトリ」

https://shinitori.net/

このサイトは、「辛い、死にたい」と思ったとき、一度は訪れてほしいと思う。アプリもある。おすすめ。

 

追記

以下のサイトも個人的におすすめします。。

 

「(浦和神経サナトリウム ホームページ) 院長のエッセイ」

https://urawasanatorium.com/2021/11/03/death/

さいたまの精神科病院のホームページ内にある院長先生のエッセイのアーカイブのようです。死にたいと思ったときにたまたまサイトを見つけて読みました。

 

 

「あなたを変える聖書のメッセージ集(仙台福音自由教会のホームページ)」

https://sendaiefc.com/bible-messages-changing-you/

これは仙台にあるキリスト教会のHPですが、読みもののような形で、日常抱える悩みごとなど様々なテーマ別にメッセージ集がまとめられたページがあります。悩んでいるときによく読みました。キリスト教はよくわからないという方でも読みやすいと思うのでおすすめします。私自身はこの教会関係者ではありませんが感謝してます。

 

 

 

 

 

生きることの意味

私は、正直なところ、ごく最近まで、自分が生きる意味がわからなくなっていた。

何か具体的に活動して、誰かに認められるとか、評価されるとか、お金を稼げるとか、そういう評価軸がないと、自分の生きる意味を見い出せず、病身で、引きこもって、家の事も少ししか出来ない自分が、とてもみじめに思えていた。

いや、病気で引きこもるずっと前から、私は漠然と、生きている意味、生まれてきた理由がわからなかったし、辛いことが多くて、自分は生まれてこないほうが良かったのではとさえ考えることがあった。ただ、まだ社会活動、外での、学校なり仕事なりが、あった頃は、それをこなすことでいっぱいいっぱいだったし、頑張っていれば、外から評価されることもあったので、とにかく必死に、ときに燃え尽きるまで、頑張ったこともあった。

しかし、心身を病んで、できない事が増えて行くにつれ、「頑張っていれば、結果を出していれば、認められる」と学習して育った私は、自分が無価値になったように感じられた。何も出来ない。社会のお荷物になっている。そんな自分が嫌で、資格取得にのめり込んだ時期もあった。何もできない自分には、生きる資格がないと、心の奥でくすぶる思いがあった。

だから、キリスト教の門を叩いたとき、どんなに、「あなたは神に愛されている」とか「あなたは高価で尊い」とか言われても、ピンと来なかったし、なかなか信じられなかった所があった。

私はずっと自分の生きる意味、大きく言えば使命のようなものを探していた。そのために過去には占いやスピリチュアルに手を出したことさえあった。本当は怖かった。何もない自分に生きる意味も価値もないと烙印を押されるのが怖かったのだ。

迷いながら、悩みながら、洗礼を受け、また迷いながら、悩みながらも信仰生活をほそぼそと続けていた。

そして最近、ある日の昼間に、食器を洗いながらふと気付いたことがあった。生きることは奉仕かもしれない、と。

何をするときも、心をこめて奉仕をするような気持ちですることが、大切なのかもしれない、と。

私もクリスチャンの端くれで、キリストに仕える者として、自分がすることすべてを主への奉仕とすることも可能なのだ、そう思ったとき、新しい扉が開いた気がした。

今まで、具体的になにかをかたちにすることが大切だと思っていたし、具体的な使命を求めていたけれど、瞬間瞬間、どんなことであっても、主に対してするように、真心をこめて奉仕をすることのほうが、大切だと思えた。

病身で、できることは限りなく少ないけれども、それでも、できることを心をこめてしよう。

生きることはきっと、それだけでボランティアのようなものだ。

そして、私を生かしてくださっている神ご自身も、ボランティアで私を生かしておられると思う。

空気も水も、食物も、住まいも着るものも、今あり、与えてくださっている方は

さらに良いものを与えて下さる方でもある。

本当の命、永遠の命は、キリスト以外に、誰も与えてくれない。

それはお金で買うことができない。

お金は天国へは持っていけない。

キリストの血という代価によって、私は、神に買い取られた身である。

ここには平安がある。私は神のものとされたのだ。

だから私は、神に仕える身である。

失敗もたくさんあるけれども、人生の一つ一つを、キリストへの奉仕として、心をこめてしていこう。そのことを、忘れてしまうこともあるけれど、思い出すたびに、神への奉仕と変えていこう。

 

 

 

 

キリストなしには

私はキリストなしには生きられないし、私はキリストなしにはありえない。

改めてそう気づいた。

誰か何かに依存して生きることは一般的にはあまり良くないとされる事が多い。

だが、キリストにしがみついて生きることは力だ。

私は昨今の縄文ブーム?や、2025年の大災害説などを知らないわけではない。

相変わらず私のもとにそうした都市伝説的、オカルト的情報が入ってきてしまうのは事実だ。

でももし、それが本当に起こることだったなら、なおのこと本当の神、キリストを信じることを強くすすめたいと思うのである。

というのは、人間はいつ死ぬかわからないが、とくに昨今、多数の災害が発生し得る状況であり、その危機的状況にいつも隣り合わせだからであり、キリストを信じるにあたっては、セカンドチャンス(死後キリストを信じる機会)は存在しないと思うからである。

キリストを信じるなら、たとえ死んでも生きる事ができる。

生きている間苦難はあっても、希望は失われない。

永遠の命を得られるのである。

 

 

 

 

 

自分とは

時々、自分って誰なんだろう?そんな不可思議な感覚に陥る。

まるで自分が無くなってしまったような、透明人間になってしまったような感覚だ。

私は、自分の核となるようなものが存在しないかのように思える瞬間がある。他の人から刷り込まれた価値観で動いているだけの、ロボットみたいに思えることもある。それは恐ろしいことだ。

私は会話する時、よほど気心のしれた人とでない限り、ほぼ聞き役に回ることが多い。単純に人の話を聞くというのが好きなのもあるが、私は「自分はこう思う、こうしたい」というような意志が、ないといえば嘘になるが、薄い。考えがペラペラだ。その考えというのも、結局誰か他の人の受け売りのようなものに過ぎないと思う。

確かに、オリジナリティなどというものは、神のみが持っているものであって、人間の言う事やる事なんてのは、二番煎じに過ぎないのかもしれない。

ただ、個々人で見た場合、その人個人がどうしたいか、何がほしいか、どう考えるか等が、本人にもわからない場合、もはや誰にもわからないのである。百歩譲って察しの良い人がいたとしても、その人がずっとそばにいてくれるわけでもないし、その察しが完璧に正しいとも限らない。

 

私がこうなってしまったのには理由がある。

統合失調症の発症が大きな契機ではあった。しかし、もっと前から私はおかしかったのである。

それはいわゆるオカルト分野に私がどっぷり浸かっていた事、さらにその影響か、私自身がある種の神秘体験をして、突発的にいわゆるヨガで言うところのクンダリーニが上昇してしまったことが大きな原因である。このことに関しては、あまり詳しく述べないが、まあとにかく大変で、私は最終的に人生を棒に振った形である。

しかし、それでもなお太陽は昇るのであった。

私は様々な体験の末にキリストに帰依したので、上記のことをすべてサタンのせいにしてもいいかもしれないのだが、自分から危険地帯に突っ込んで行った私の責任は決して軽くはない。だからこそ今こうして病苦を与えられているとも思うのであった。

かろうじて自己弁護するなら、私は神様と会いたくて、近づきたくて占いや神社巡り、スピリチュアルに手を染めたのだった。しかし、それらのことは、本当の神様が忌避されていることと聖書で知り、私はただ悲しみに暮れるしかなかったのだった。

単純に私は愚かだったし、今もそれは変わっていない。

しかし、それでもなお、太陽は昇る。

私はもはや神の存在を疑わない。

確かに神は存在すると確信している。

でもその方は、私の思っていたのとは違うお方だった。

神は実に秩序ある方で、と同時に、感情もお持ちで、燃えるような愛と、だれよりも正しい裁きが同居している。

実際会ったことはまだないが、聖書から読み取る限り、神というお方には、冷静さと同時に計り知れない熱さも感じる。不思議である。対極に思われるものが同居している。

聖書が、この方を恐れるよう教えるのは、人の魂の生殺与奪の権を、この方が握っておられるからである。そしてその命運は神のひとり子キリストに託され、実にその十字架による罪の贖いの計画は成就したのであった。

私たちは、受け取るだけで良いし、信じるだけでよいのである。

ただ、キリストが自分の罪のため十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目に死よりよみがえられ、天に昇られた、この方だけが救い主と信じるのみである。

私自身色々なことがあったが、主イエスキリストと出会えたことは、本当に喜びであった。確かに私は罪を犯してしまったし、何なら罪人のかしらですらあるが、それでも、私を愛して下さる神の愛によって、私は生かされているのだろう。

今もし、苦難の中にある人がいるなら、ぜひその場所から、イエス様を呼んで見てほしいと思う。イエス様は、あなたが地上のどこにいても、救いの手を差し伸べてくださると思う。

 

 

死にたい思い

私の心の声の記録として、このブログを作った。

私は中高生から摂食障害、二十代からは統合失調症も患っている。

そして三十代の今、とても死にたい気持ちになっている。

今は結婚もして、子どもはいないけどまあまあ平安な日々があって、自分がどれほど恵まれているかわかっているのに、それに統合失調症の激しい症状も薬でなんとかなっているのに、それでも発作的に死にたくなってしまうのだ。

一度死にたいという発作になると、そのことしか考えられなくなって、気分転換もできないし、頓服薬もうまく効かないこともある。

しまいには頭痛までしてくる。気が遠くなる。

そんなときに過食をしてしまったりして、更に落ち込む。

普段はむしろ死ぬ事が怖いくらいに思っているのに、発作がくると耐えがたい「死にたい」という思いに心も頭も占領されるのだ。

辛い日々である。