時々、自分って誰なんだろう?そんな不可思議な感覚に陥る。
まるで自分が無くなってしまったような、透明人間になってしまったような感覚だ。
私は、自分の核となるようなものが存在しないかのように思える瞬間がある。他の人から刷り込まれた価値観で動いているだけの、ロボットみたいに思えることもある。それは恐ろしいことだ。
私は会話する時、よほど気心のしれた人とでない限り、ほぼ聞き役に回ることが多い。単純に人の話を聞くというのが好きなのもあるが、私は「自分はこう思う、こうしたい」というような意志が、ないといえば嘘になるが、薄い。考えがペラペラだ。その考えというのも、結局誰か他の人の受け売りのようなものに過ぎないと思う。
確かに、オリジナリティなどというものは、神のみが持っているものであって、人間の言う事やる事なんてのは、二番煎じに過ぎないのかもしれない。
ただ、個々人で見た場合、その人個人がどうしたいか、何がほしいか、どう考えるか等が、本人にもわからない場合、もはや誰にもわからないのである。百歩譲って察しの良い人がいたとしても、その人がずっとそばにいてくれるわけでもないし、その察しが完璧に正しいとも限らない。
私がこうなってしまったのには理由がある。
統合失調症の発症が大きな契機ではあった。しかし、もっと前から私はおかしかったのである。
それはいわゆるオカルト分野に私がどっぷり浸かっていた事、さらにその影響か、私自身がある種の神秘体験をして、突発的にいわゆるヨガで言うところのクンダリーニが上昇してしまったことが大きな原因である。このことに関しては、あまり詳しく述べないが、まあとにかく大変で、私は最終的に人生を棒に振った形である。
しかし、それでもなお太陽は昇るのであった。
私は様々な体験の末にキリストに帰依したので、上記のことをすべてサタンのせいにしてもいいかもしれないのだが、自分から危険地帯に突っ込んで行った私の責任は決して軽くはない。だからこそ今こうして病苦を与えられているとも思うのであった。
かろうじて自己弁護するなら、私は神様と会いたくて、近づきたくて占いや神社巡り、スピリチュアルに手を染めたのだった。しかし、それらのことは、本当の神様が忌避されていることと聖書で知り、私はただ悲しみに暮れるしかなかったのだった。
単純に私は愚かだったし、今もそれは変わっていない。
しかし、それでもなお、太陽は昇る。
私はもはや神の存在を疑わない。
確かに神は存在すると確信している。
でもその方は、私の思っていたのとは違うお方だった。
神は実に秩序ある方で、と同時に、感情もお持ちで、燃えるような愛と、だれよりも正しい裁きが同居している。
実際会ったことはまだないが、聖書から読み取る限り、神というお方には、冷静さと同時に計り知れない熱さも感じる。不思議である。対極に思われるものが同居している。
聖書が、この方を恐れるよう教えるのは、人の魂の生殺与奪の権を、この方が握っておられるからである。そしてその命運は神のひとり子キリストに託され、実にその十字架による罪の贖いの計画は成就したのであった。
私たちは、受け取るだけで良いし、信じるだけでよいのである。
ただ、キリストが自分の罪のため十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目に死よりよみがえられ、天に昇られた、この方だけが救い主と信じるのみである。
私自身色々なことがあったが、主イエスキリストと出会えたことは、本当に喜びであった。確かに私は罪を犯してしまったし、何なら罪人のかしらですらあるが、それでも、私を愛して下さる神の愛によって、私は生かされているのだろう。
今もし、苦難の中にある人がいるなら、ぜひその場所から、イエス様を呼んで見てほしいと思う。イエス様は、あなたが地上のどこにいても、救いの手を差し伸べてくださると思う。