生きることの意味

私は、正直なところ、ごく最近まで、自分が生きる意味がわからなくなっていた。

何か具体的に活動して、誰かに認められるとか、評価されるとか、お金を稼げるとか、そういう評価軸がないと、自分の生きる意味を見い出せず、病身で、引きこもって、家の事も少ししか出来ない自分が、とてもみじめに思えていた。

いや、病気で引きこもるずっと前から、私は漠然と、生きている意味、生まれてきた理由がわからなかったし、辛いことが多くて、自分は生まれてこないほうが良かったのではとさえ考えることがあった。ただ、まだ社会活動、外での、学校なり仕事なりが、あった頃は、それをこなすことでいっぱいいっぱいだったし、頑張っていれば、外から評価されることもあったので、とにかく必死に、ときに燃え尽きるまで、頑張ったこともあった。

しかし、心身を病んで、できない事が増えて行くにつれ、「頑張っていれば、結果を出していれば、認められる」と学習して育った私は、自分が無価値になったように感じられた。何も出来ない。社会のお荷物になっている。そんな自分が嫌で、資格取得にのめり込んだ時期もあった。何もできない自分には、生きる資格がないと、心の奥でくすぶる思いがあった。

だから、キリスト教の門を叩いたとき、どんなに、「あなたは神に愛されている」とか「あなたは高価で尊い」とか言われても、ピンと来なかったし、なかなか信じられなかった所があった。

私はずっと自分の生きる意味、大きく言えば使命のようなものを探していた。そのために過去には占いやスピリチュアルに手を出したことさえあった。本当は怖かった。何もない自分に生きる意味も価値もないと烙印を押されるのが怖かったのだ。

迷いながら、悩みながら、洗礼を受け、また迷いながら、悩みながらも信仰生活をほそぼそと続けていた。

そして最近、ある日の昼間に、食器を洗いながらふと気付いたことがあった。生きることは奉仕かもしれない、と。

何をするときも、心をこめて奉仕をするような気持ちですることが、大切なのかもしれない、と。

私もクリスチャンの端くれで、キリストに仕える者として、自分がすることすべてを主への奉仕とすることも可能なのだ、そう思ったとき、新しい扉が開いた気がした。

今まで、具体的になにかをかたちにすることが大切だと思っていたし、具体的な使命を求めていたけれど、瞬間瞬間、どんなことであっても、主に対してするように、真心をこめて奉仕をすることのほうが、大切だと思えた。

病身で、できることは限りなく少ないけれども、それでも、できることを心をこめてしよう。

生きることはきっと、それだけでボランティアのようなものだ。

そして、私を生かしてくださっている神ご自身も、ボランティアで私を生かしておられると思う。

空気も水も、食物も、住まいも着るものも、今あり、与えてくださっている方は

さらに良いものを与えて下さる方でもある。

本当の命、永遠の命は、キリスト以外に、誰も与えてくれない。

それはお金で買うことができない。

お金は天国へは持っていけない。

キリストの血という代価によって、私は、神に買い取られた身である。

ここには平安がある。私は神のものとされたのだ。

だから私は、神に仕える身である。

失敗もたくさんあるけれども、人生の一つ一つを、キリストへの奉仕として、心をこめてしていこう。そのことを、忘れてしまうこともあるけれど、思い出すたびに、神への奉仕と変えていこう。