パンとサーカス

‭マタイによる福音書 4:4 口語訳‬
エスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 

 

聖書にはよくパンが登場する。上の言葉はキリストが言われたものだが、「書いてある」と言っているのは旧約聖書のことで、そこから引用する形で言われている。引用元は申命記の8章らしい。

 

申命記 8:3 口語訳‬
それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。 

 

さて、古代ローマのある詩人の言葉に「パンとサーカス(見世物)」というたとえがある。これは知っている人も多いかもしれない。パン(食糧)とサーカス(見世物、娯楽)によって満足してしまい、政治的関心を失った市民を指摘した言葉のようで、現代でも愚民政策の比喩として使用されるらしい。

 

こうして見ていくと人間の弱さというのがわかる気がした。

まず、生きていく上でパン、食糧というのはどうしても要るのであろう。実際いる。現代人で飢えを感じている人は少数派かもわからないが、いつまた食糧難が起こるともわからない世界に人は生きている。まずこの時点で人間というものは弱い。神によってか弱く造られたとしか思えない。

神はパンなしに人が生きられるとは言っていない。しかし、パンだけではダメだと言っている。ここからが問題である。

聖書は人間が「神の口から出る一つ一つの言(ことば)によって生きる」と言っている。

思えば私たち人間は、日々淡々と暮らしていても、どこか心に充足感がない、ということがよくある。それは恐らく食物では満たせないこともどこかでわかっている。それを真に満たすものこそが神のことば、言ってしまえばキリストご自身ということなのかもしれない。

しかしながら、この世にはサーカスが多すぎるのである。

この世のありとあらゆるサーカスは、私たちの心に感じるふとした不足感を、いともたやすく「満たした感じ」になってしまうのである。娯楽を禁止するつもりは毛頭ないが、自戒のためにこれを書いている。

キリストにしか満たし得ない心の領域があるのであろう。そういう意味では多くの人が飢え乾いているのである。そしてそれに気づくこともない人が大多数かもしれない。パンとサーカスで人はとりあえずは満足できてしまうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未完とはつゆ知らず

最近、妙に活字が恋しくなった。こんなことは私の人生でほぼないが、小説を読みたいと思ったのである。

小説なんて高校のときちょっと読んだくらいなもので、その後は実用書か、詩集くらいしか読まなかったし、そもそも私は小説のような恋々としたものを読むのは苦手な方であった。

それがどうして、夏目漱石を読んだのである。

中学時代、『坊っちゃん』は私の睡眠導入剤と成り果てていた。だから坊っちゃんは最初の方しか読んだことがない。

そんな自分が、どんな因果か、漱石の長編『明暗』に読み耽ったのだった。きっかけは何ということもない。青空文庫でたまたま見つけて興味本位で読みかかったのである。

しかし迂闊にも私は途中まで気づかなかった。この作品が漱石の遺作、未完であることを。予想以上に内容が面白かったので、永遠に結末が分からないと知ったとき、何か膝から崩れ落ちる思いがした。

それでも気をとりなおし、書かれているところまで、なんとか読了することはできた。

この作品は主に、ある夫婦の関係を軸とした人間模様が描かれているので、結婚している身としては色々考えさせられた。途中で視点が夫になったり妻になったりするのだが、漱石はどうしてこんなに克明に女性側の心理まで描写できたのだろうとも思った。

小説を読むのがこんなに面白いと思ったのは初めてかもしれない。

 

自分には力がないということ

詩篇 28:7 口語訳‬
主はわが力、わが盾。 わたしの心は主に寄り頼む。 わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、 歌をもって主をほめたたえる。

 

珍しく聖書を引用してみる。

私は詩篇を読むのが好きだ。毎晩寝る前に読んでいる。

(主は)わが力、という言葉は他の箇所にも出てくると思う。

個人的に重要だと思っている。

これ、無限なる神が自分の力の源である、というと、自分はどんなことでもできそうに思えるが、ただしその力は自分のものではない。

そして神の力を知るとき、自分個人の乏しさ、無力さを知る。

主なる神は不思議な方だとも思う。全能であるのに、何でもかんでもなさるわけではない。それは、神ご自身の品性がそうさせるのかもしれない。神は明確な計画や深遠な考えをお持ちなのだと思う。

 

自分がなんの力もない、無力だと感じられたとき、二つの道があるような気がする。一つは、何とか自分に力をつけようと、ある種の修行?を試みる道、もう一つは、自分は無力だと認めて、主なる神に助けを乞う道。

多くの人は自助努力として一つ目の道を選ぶかもしれない。

自分が全くの無力だと認めることは案外難しい。人間誰しもプライドというものがある。

なので、本当にどうしようもなくなってから神頼みする人は多いと思う。そして苦難を脱したら、忘れてまた自分で生きていこうとする人も多い。私もそうだった。

でも多分、主は私たちと一緒に人生を歩みたいと思っておられるのだと思う。それは一時的なものではなく、永続的な道のりである。

 

だから、今もし、ああ自分って何もないな、と思っている人がいたら、それは本当の神様に助けを乞うチャンスかもしれない。神様に全面的な力を借りる人生は、今までと全く違う展望を、あなたに見せてくれるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

薬が変わってから

最近、処方薬が変わった。

効き目は良いのか悪いのか判断しかねるところで、良い面では根本的に精神が安定した感じはある。食欲も落ち着いている。

悪い面は、平たく言うと、色々どうでも良くなってしまったことで、しばらくほとんど何も手につかなかった。ブログを書こうにも何も言葉が出てこない。趣味でしていた色々なこともほぼストップしてしまって、寝込むことが増えた気がする。こういうことは変薬前もあったが、以前と違うのは、できなくなっても、それでほとんど焦りや悲しみや無力感を感じなくなったことだ。もういっかーはははー、みたいな妙な明るさがある。これはアパシーと取るべきなのか。。

正直、こんなに変わると思わなかったし、もとの薬に戻してもらうか、新しい薬を続けるか、悩ましい。

 

 

死について

これから書こうとすることは、うまく書けるか正直わからない。

とりあえず書き進めてみる。

 

私は諸々あって救われたクリスチャンの端くれである。

罪によって死んでいた霊は生き返ったはずで、だからあわよくば精神の病も治ったならとさえ思っていた。

しかし、私の心は相変わらずぐずぐずで、病も治らないし、罪を又犯してしまうこともある、世の中もどんどん生きづらく悪い方向に行く、何より「生きている間は主イエスと離れている」ことが耐え難い。早く(肉体的に)死んで、主のみもとにいきたい。しかし自殺も罪と言われる。辛い死にたいでも死ねない。

そんな心境に陥り、堂々めぐりする思いに困り果てる。

本当なら、もっと前向きになりたいし、イエス様のことをもっと伝えたいし、でもどんどん死にたくなってしまう。

ただ、自殺だけはできない、と思っている。これは私が若かりし頃に、ダンテの神曲を読んだ影響も少しはあるかもしれない。

 

 

死で終わらない

正直私はクリスチャンだが何の伝道らしいこともしてないし、信仰も強制されてするものでなくて自由なものだと思っているのだけれども、なんだかんだでここに書いておく。

私はクリスチャンだが、スピというかオカルト出身者であることは前に書いた。

で、今スピ界隈で囁かれている、来年あたり国内でとんでもない災害が起こるかもしれないという説も知っている。

それを踏まえて語るのは信者としてどうかとも思ったのだけど、実際問題として、人は、本当にいつ死ぬか分からないので、死ぬまでにぜひ頭の片隅においていてほしいと思うことがあってこれを書いている。

私はあくまでもキリスト信者なので、その立場で書くことをご容赦願いたい。

 

まず、死後の世界は、あるという大前提で書く。死後の世界は、簡単に言えば天国と地獄に二分化される。おそらくカトリックでは、その中間というか煉󠄁獄という場所があるという説もあると思う。

私はプロテスタントの立場なので詳しい説明は控えておくが、死者が天国に行く前に魂を火で浄める場所というような感じだと思う。

聖書において天国は、パラダイス、あるいは「アブラハムのふところ」などとも言われていたと思う。対して地獄は、よみ、とか、火の池、などとも呼ばれる。

で、これも大前提だが、まことの神の目から見たら、全ての人にはアダムとエバ堕落以来の「罪」の性質がある。この、人間が内包している罪を、救い主イエス・キリストが十字架にかかることによってあがない、つまり人間の身代わりに処罰することで、神はキリストを救い主として受け入れるすべての人を救う、すなわち神の怒り・神のさばきから救い、死後キリストと共に天国で暮らせる永遠の命をその人にくださるのである。

なので、死後の命の保証がほしいなら、つまり天国へ行きたいなら、キリストを唯一の救い主、また神として、王として、受け入れる必要がある。何もせずに、そこそこ幸せに過ごして、それで死んだとしても、死後のことまでは考えなかったとしたら、どんなにか勿体ないだろうか。

もし、キリストを信じたが、仮に聖書やキリストのことが万一嘘で、事実じゃなかったと死後知っても損害はないが、もしキリストを信じなかったとして、聖書やキリストのことがすべて真実であったとしたら、あなたにとってとてつもない、永遠の損害になる。

なので、日本では少数派となってしまうかもしれないけれども、キリストを唯一の救い主として受け入れることは、死後の命の損害保険に入るようなものだと私は思っている。死んでから生命保険に入ることはできないように、死んでから死後の命の損害保険には入れないと思う。もちろん、キリストを知らないが、なんとなく創造主の存在を思い、あがめている人々もいるかもしれないし、誰が救われて誰が救われないのかは私はわからない。もしかしたら死ぬ寸前に救われる人もいるかも知れない。

ただ、今これを読んでくださっているあなたにはチャンスがある。

生きているあいだにキリストを唯一の救い主として受け入れ、キリストに従っていく道に入るチャンスである。

 

私もいつ死ぬかわからないし、あなたもいつ死ぬかわからない。

だからこそ、一刻もはやく、キリストを信じ、死後の平安を得てほしいと思っている。

 

 

 

魔法みたいな方法はない、でも

日々、死にたい、という思いに抗いながら生きるのには、かなりの労力を使う。

私も精神科にかかって薬を処方されている身だ。

精神科にかかるハードルは今も高めで、偏見も根強い。薬漬けにされてるとか、精神科なんてやめたほうがいいとか、甘えてるだけだとか言う人もいるかもしれない。

でも、ある意味今日一日の生存も危ぶまれる人もいるとどうか知ってほしい。目に見えないけれど、精神は生きるか死ぬかの戦いをしているのだから。

特に未成年の場合、本人が辛くて通院等希望しているのに、親の了承が得られなくて精神科にかからせてもらえない、という話も聞いたような気がする。

もちろんすべての不調で精神科心療内科が必要とされるわけでもないし、病院にかかって薬をもらったからとてすぐに解決しない問題もあるかもしれない。魔法みたいな方法はない。でも、治療に時間がかかるからこそ、早く病院にかかる必要がある場合も多いと思う。